1. 清佐衛門地獄池から
南足柄市は箱根の外輪山の麓、小田原から内陸に電車で30分ほど入った所にある。気候に恵まれ、とても過ごしやすく冬でも温暖で雪が降る事もめったにない。私の住んでいた場所からは富士山の頭の部分が見えて、冬は真っ白な山を毎日眺めていた。
富士山は小田急線に近い方、開成とか栢山あたりまで行けばしっかり大きく見えるし、左右のバランスがよくきれいに見える。
この辺りは至る所で富士山の伏流水が湧き出していて、田植えを終えた田圃では、植えてある稲苗が浮いてしまわないか心配する程あちこちから水が湧き出していた。
近くには、からす天狗の曹洞宗の寺『大雄山最乗寺』があり、小田原から伊豆箱根鉄道大雄山線の電車が走っている。
ここは私が青春時代に過ごした町で、第二の故郷になってしまっている。当時は足柄上郡南足柄町だった。
初めてこの町にやってきた時、先ず屋根に瓦がない家が多いのに驚いた。風景が違うし風も違う。この雰囲気はどうも私の感覚だけだが、三島からこの辺りにかけてだと思っている。
今年7月、久しぶりに南足柄の友人を訪ねた。会社の同期生で私は中途退社したが、彼はずっと勤めあげた。技術系として採用された同期の者は20数名いたが、その内の何人かは退社してしまっている。
その友人に会って、先ず行った場所は『清佐衛門地獄池』だ。この工場の水を供給する大切な水源地になっていた。それで工場の第二水源地とも呼ばれていたようだ。
この工場では空気中の埃を取り除くために水を大量に使用する。当時、広島市に匹敵する使用量だと言われていた。
それだけではなく、富士山の伏流水として、平成の名水100選にも選ばれている。
この地は、東京から転勤して何年かすると『あしがらぼけ』になると言われていた。それ程温暖な気候とのんびりとした時間が流れていたようだ。
2. 大雄山駅前にあった『みのや』が・・・
休日はアパートでの食事が無かったのでよく通ったのが『みのや』だった。
久しぶりの駅前はすっかり変わってしまっていて、『みのや』は跡形もなくなってしまっていた。
ただ、伊豆箱根鉄道の大雄山駅舎だけは今も当時のままだ。
現在の駅前には『ヴェルミ』という商業ビルが建っている。その中には『金太郎横町』とか名づけられた通りがある。
そんな事で、駅の辺りはすっかり景観が変わってしまった。
曹洞宗大雄山最乗寺への参拝客用として敷設された鉄道だが、ちょうどこの工場ができた事で、従業員の通勤の足として使われていたようだ。
私たち南足柄の住人が小田原へ行く時はいつもこの電車に乗っていた。
大雄山電車は当時15分毎だったが、今はもっと便利になっているようだ。
すっかりきれいな通りになった、大雄山駅前のメインストリートだが、車も人もかなり少なくなったようで、寂しい。
福島県出身の友人は、どこかにある焼き鳥の美味しい店を知っていたようで、しかも可愛い女の子がいるとか、「めんこいこがいるんだ⤴」と言っていたのだが、私はその店に行った事がない。どこにあった店なのか気になっている。
この坂道を少し上り、右側に狭い道を入ると『第七アパート』に出るのだが、今では大きな建物が全て取り壊されて、すっかり更地になってしまっている。雑草が生い茂り、夢の跡になっているのだ。
私は入社当時、『第三・四アパート』にいて、その後『第七アパート』へ移転した。
『第七アパート』はこのような更地になってしまった。
友人はこの近辺に居を構えているので、第七アパートへ案内してくれたのだが、こんな状況だと一人で探しても見つからなかっただろう。
この『第七アパート』は150室位の規模で、第八アパートと共に業界の最先端の技術者が住んでいた。
深夜まで部屋の明かりが消えないし、休日もドイツ語の会話が聞こえてきたり、みんな遅くまで熱心に勉強していたようだ。
3. この工場の7階が職場だった
この本社・工場・付属施設では最盛期に7500人もの人が働いており、湘南・西湘地区でも有数の規模であった。経常利益率も高く超優良会社だ。
私の職場は製造機も入る大きな建物の7階にある実験室。
当時は仕事が忙しく、経時実験とか製造機でのテストで、徹夜や夜間の非常呼び出しのような勤務も多かった。
真夜中に会社から電話があると(当時は携帯電話が使われていなかった)、住み込みのおばさんが部屋まで連絡しに来てくれるのだ。
工場は24時間稼働しているから、現場とすれば時間など関係ない。製造機でのテストのトラブルは技術課に連絡が入る。
住み込みのおばさんは3人いて、朝夕の食事の支度の時には他に数名出勤して来ていたようだ。それでも真夜中に電話が入るといつも同じおばさんだった。連絡を終えると4階の部屋からとぼとぼ歩いて帰る。
当時、箱根登山バスが小田原、松田と、富士急バスが山北方面へとひっきりなしに走っていたのだが、今は小田急線の開成駅までのバスしかないみたいだ。

会社での思い出として、第二食堂のラーメンがある。シナチクとナルトとチャーシューが入った素朴な味だが、これがうまいのだ。
大食堂は体育館のようなでっかい建物で2階になっていたから、多分1500人以上は入れたのだろうが、この第二食堂の規模は小さく、そばとラーメンくらいしかなかった。
ただ私のように不規則な勤務をしている者にとってはありがたい存在だった。しかも近くには会社の図書館もあり、食事の後によく通ったものだ。BGMも流れていて、『ベサメムーチョ』の甘い旋律から、コンチネンタルタンゴにも惹かれていた。
この足柄サイトはとても広く、当時、敷地を半周する箱根登山バスのバス停が6つもあった。
今では大雄山電車の和田河原駅の向こうにも連結子会社(売上高約1兆2千億円)の広大な敷地の工場がある。
工場の終業時間に西門近くを歩いてみたが、人がいないのだ。あれだけ何台ものバスが連なって走っていたのに、今では工場から出てくる人は少ない。
製造の主体が変化し、この工場は一旦役目を終えてしまったのだろうか。
それでも現在の連結売上高が約2兆5千億円なので、会社としての勢いは失われていない。
4. 足柄峠から見た富士の絶景
今回は自宅から車で来たのだが、途中、駿河小山から富士山を眺めたが見えなかった。西日本にいると、とにかく富士山が珍しい。それに私はこの南足柄の懐かしい富士山が見たかった。
友人もそれは知っているみたいで、足柄峠へ行こうという事になった。

♪♪ あしがらやまのやまおくで けだものあつめて すもうのけいこ
はっけよいよい のこった ・ ・ ・ ・ ・ ♪♪
『足柄山の金太郎』、はどこでどこで相撲をとったのか。
金太郎は駿河小山で生まれ、幼少の時代、この近辺で過ごしたように私は思っている。

太宰治は『富嶽百景』で、御坂峠から見た富士山を「鈍角も鈍角、のろくさと拡がり・・・」、と書いているが、南足柄もこの足柄峠も、なだらかにすそ野を広げている。それでも身延線の電車から見ると、かなりの鋭角に見えるから不思議だ。
足柄峠まで車で行って、少し歩いた場所から富士山が見えた。
画面下の方は御殿場線の足柄駅付近だ。

徹夜明けの大雪の日に、一人でバスに乗り足柄峠まで行って、金時山を目指して登った事があった。
ただあまりにも雪が深くて途中で断念した。そんな思い出がある。
沢の岸辺にあった柳の枝が今も記憶に残っている。

休日には、箱根の外輪山である明神岳に登って、その向こう側にある仙石原に行ったりもした。
冬の箱根は温泉の他にアイススケートも楽しめる。私はホッケーのスケート靴で滑っていた。駒ヶ岳の山頂にあるスケート場だ。
(写真の上にマウスを置くと拡大される)
5. 変わりゆく小田原の街並み
小田原は戦国時代に北条氏の城下町として発展したようだが、私は江戸時代、東海道五十三次で九番目の宿場町として賑わった町と捉えている。
小田原と言えば『おだわら提灯』だが、蒲鉾、梅干、干物なども有名で、歴史ある街並みにはお城のような店構えの『外郎(ういろう)』があり、万能薬『透頂香』とお菓子のういろうが売られている。
梅はと言えば、北条時代からの曽我梅林が有名で、そこには日本三大仇討、曽我兄弟、五郎、十郎の話がある。
小田原は海岸に近い地域に有名人の別荘や家があると教えられた。確かにあの辺りにはそのような風情ある邸宅があったように記憶している。今は西湘バイパスの高架道路が走っているので普通の住宅地だ。
小田原駅舎はきれいに建て替えられてしまった。以前の駅前の雰囲気は全く無くなってしまった。学生がたむろする、ルンペン広場も消えた。
新幹線、小田急線やJR線などを結ぶ広い通路には小田原のみやげ物店が並んでいる。『まるう』『鈴廣』『籠清』の蒲鉾、『ちん里う』の梅干し、などが有名処だ。
小田原駅でコーヒー豆を買っていた『アートコーヒー』とかは未だあるのだろうか。
それにしてもこのだだっ広い空間は、私にはどうも落ち着かない。
この通りは駅より線路に沿って東側の東口商店街だ。職安があったので『職安通り』と呼ばれていた。『守谷』のパンもここにある。
この通りに食堂が二軒並んでいて、そこでは客がトマトをスライスしたものを肴にビールを飲んでいた。当時はそんな時代だったのかも知れないが、私はかなり驚いた記憶がある。
小さなデパートもあって、その屋上には夏場ビヤガーデンが開かれていて、私も何度か行った。
小田原は東京からいくらも離れていないと思うのだが、女性のファッションはかなり違っていたようだ。田舎っぽくなると言われていた。神奈川県の西の端なので言葉も西湘言葉で、「~そうだべぇ」とか。何たって、べぇをよく使う。それに浜言葉の「~じゃん」も多い。
当時、小田原には映画館が2か所あった。「中央劇場」と『オリオン座』、私は松田にあった映画館にも行っていた。そこは古びた劇場で客席の中央でストーブを焚いていた。そこで見たのは『夕笛』だ。
『志澤デパート』も『箱根登山デパート』『長崎屋』『丸井』も無くなっている。その代わりと言うか、駅前にゆったりとした地下街ができた。
こちらの通りは駅から真っすぐ行って分岐を左側へ入った道『錦通り』だ。
そば処『寿庵』ではそばと鍋焼きうどんを食べた記憶がある。
2階にある韓国焼肉の店にも行った。この通りの喫茶店ではカクテルを飲む。当時サントリーのカクテル瓶入りが流行っていてそんなのをアパートで友人と飲んだりもした。ライムジュースとジンを買って作るのがジンライムだ。
今回は小田原で2日間いたのだが、初日は友人と話した後、極楽寺を訪ねて住職とも夜遅くまで話し込んでしまった。そんな事で終電近くになって和田河原駅から小田原へ向かった。
この日は小田原のビジネスホテルを予約していた。
地図で探して行くと何と、当時、小田原では有名な飲み屋街の中にあった。『宮小路』と言う通りだ。今は寂れてほんの数軒しか営業していなかった。
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上の写真は、狩川に架かる橋から矢倉岳の方向を写したもの。
中央やや左側の富士山のような山が矢倉岳で、富士山はその左側にかなり大きく見えるのだが、今日は天気が悪く雲に遮られている。
左端が箱根の外輪山の明神岳。ここを越えると仙石原に出る。
2本の電柱のはるか向こう側に足柄峠とか金時山がある。
右側は伊豆箱根鉄道の大雄山駅がある関本の街並みだ。
日本でも有数の企業城下町と言われ、とても活気のある南足柄町(当時)だったが、時代の変遷か、チョッと静かな町になってしまっていた。

駿河小山、道の駅にある金太郎像。下から富士の湧水が出ている。

南足柄『大雄山駅』前にある金太郎の像。金太郎のふる里足柄山と書いてある。

南足柄市消防団にも金太郎がデザインされている。

銀行や商店の並ぶ通り。『道了餅』の看板があった。

南足柄のメイン通り。ショッピングセンターの『ピアゴ』がある。

道路の三角状の角にある『三好屋』は『さんかくや』と呼ばれていて、よく呑み会をやっていた。

東門から西門までいちょう並木が続いていて秋にはきれいに黄葉する。

広い工場の周囲にはこのような側道が延びている。

『春木径』はこの会社の初代会長である春木氏にちなんで名付けられた桜並木の径。

『春木径』には桜の並木が延々と続いていて、今では有名な桜の名所となっている。

南足柄の名刹『極楽寺』は今川義元の血筋を引く和尚さんが建てたと言われる臨済宗のお寺。

地蔵堂から坂道を上ると『足柄古道万葉うどん』がある。

『ようこそ金太郎のふるさとへ』と書かれている。金太郎が動物たちと遊んだ場所。

足柄峠までの途中に地蔵堂があり、ここまではバスの便がある。

小田原駅には街道の風情を感じる『おだわら提灯』が吊ってある。

きれいな電車に変わっている。1時間に4本だったのが5本になっていた。

東海道線、小田急線から離れて単線へ入って行く大雄山電車。

小田原の中心地、本町にある料理屋『だるま』は老舗の名店だ。

緑町にある庶民的なパン屋さん。餡たっぷりのあんパン、甘食が人気。
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