3 慶州は市街地の中にも古墳が 今日は移動日なので6時30分に起きた。TVをつけると、ニューヨーク・ラガーディア空港発のUSエア機がハドソン川に墜落したと言っている。あの空港は何度か利用した事がある。心配だ。 宿を8時に出発、地下鉄で老圃洞駅へ向かった。 釜山総合バスターミナル・市外バス慶州行き9時20分発。十数人の客を乗せたバスは定刻にターミナルを出た。 ![]() 山間の道を猛スピードで走って行く。高速道路の傍にはきれいな工場を時折見かけた。韓国は高層住宅が発達しているせいか、日本のように辺りに民家が点在しているようではない。 慶州(キョンジュ)市外バスターミナルには10時過ぎに着いた。駐車場の中みたいな場所で降ろされた。一瞬方向が分からずウロキョロしてしまう。慌てて降りた人を探す。 ここのターミナルビルは小さかった。中には出札所と売店、粉食堂がある。おでんを見たらお腹が空いてきた。慶州パンの店もある。おみやげ用なのか、箱に入ったのが積み上げてある。 先ず宿探しをやらなければならない。 ターミナルをを出るとすぐ近くに瓦屋根の観光案内所があった。地図を貰う。二人の女性が居て、日本を流暢に話す。明日、良洞に行く時には詳しく尋ねよう。大通りの交差点を東へ歩くと高速ターミナルがあった。こちらも同じような建物で大きくはない。出ている路線も少な そうである。 ![]() 安そうな宿を探す。一軒目は3万ウォンと書いてあったのだが、ベルを何度押しても誰も出てこない。 やはり駐車場付きのモテルが多いようだ。入口にビニールの簾がかかっている。ぐるっと歩いてみて、結局ターミナル近くまで戻って来てしまった。リュックを曳いているので早く見付けないといけないのだが。 キリンモテルと書かれた建物が目の前にあった。さほど高そうではない。この時間なら空室が無いとは考えられないが、とりあえず部屋はあるか聞いてみた。あると言う。25000Wだ。 アジョッシもなかなか感じが良い。ここに決める事にした。208号室に案内してくれた。部屋はオンドルが効いていてとても暖かい。 早速、荷物を置いて出かける事にした。朝はコーヒーを飲んだだけなので空腹なのだ。 歩き方を見て、明洞ソンクッスという店でトルソピビンパッでも食べようと思い駅の方へ歩いた。 ![]() しばらく歩き、右手の古墳の塀が途切れた所の交差点に、皇南パンの店があった。HPにいろんな方が美味しいと書いてあったので興味があった。 早速店内に入ってみた。2個くださいと言うと、奥へ行って焼きたてホカホカのを持って来て、紙袋に入れてくれた。 道端に出てすぐ一個食べてみる。餡がどろっとしている感じで、甘すぎない上品な味だ。とても美味しい。パンと言っても、これは餡がたっぷりの饅頭ではないのか。 明洞ソンクッスは閉まっていた。移転したのかも知れない。貼り紙が出ていた。仕方ない、二次候補の皇南ヘジャンクッへ行く事にした。 ![]() オレンジ色の看板がずっと並んでいる。さすがヘジャンクッ通りだ、同じような食堂が何軒もある。あっちこっちの店で手まねきされた。アジュマは歩道を見張っているようだ。 やはり皇南ヘジャンクッを探す。通りの中間辺りにあった。入ると椅子席の向こう側にオンドルの部屋があって、何組かが食事をしていた。 アジュマ一人でやっているようだ。ヘジャンクッって言うと、奥の方の冷蔵庫から ![]() ヘジャンクッはやさしい味だ。ソンジ(牛の血を固めたもの)は入っていないようだ。このごま豆腐みたいなのが気にかかる。二日酔いなどの時の胃にやさしい食べ物みたいだが、確かにそんなような薄味で刺激もない。 一緒に出てきた調味料で味を調整するよう言われた。少し加えると更に美味しくなった。お金を払って出る時に、タシオルケヨと言ったらアジュマが笑った。 地図を見ながら駅前の大通りを南へ歩く。今回は世界遺産・仏国寺や石窟庵の方へは行かないつもりだ。市内中心部の史跡を回ろうと思っている。慶州は新羅の都として1000年も栄えた所で、遺跡は方々に点在している。屋根のない博物館と言われるゆえんだ。 ![]() 皆の後を辿って歩いて行くと、左側に国鉄の線路が見えた。このままい歩くと雁鴨池の裏口に出られると思っていたのに、見つからない。結局、ほぼ一周してやっと入り口に着いた。デート中のカップルの後ろなど歩くものではない、と後悔した。 雁鴨池は新羅時代の離宮の庭園だった。入場料を払って中に入り臨海殿まで歩く。貴賓をもてなす宴会をした所のようだ。中に当時の様子を再現したミニチュアが展示してあった。まわりの池はやはり凍っていた。 大通りを横切って、少し坂を上ると新羅の王宮跡だ。そこは高台になっていて見晴らしがいい。ただ現在は平坦になってしまっていて石氷庫跡以外に建物は何も残っていない。新羅の時代には、城壁に囲まれた王宮が800年もの間ここに存在していた。 下におりて、鶏林、郷校、崔氏古宅、慶州法酒と歩く。そして観光バスが停まる古墳公園の大陵苑までやってきた。 ![]() 大きさは違っていても、ずっとこの土饅頭のような古墳を見続けていたからだ。疲れていたが奥の方まで歩いた。その古墳の中で、天馬塚だけは内部に入って見られるようになっている。ピラミッドの規模はないものの古墳の内部が見学できるのだ。金の冠や数々の装飾品が展示されていた。 更にここから真直ぐ瞻星台(天文台跡)まで歩いた。よく目立つ象徴的な建造物で慶州のシンボルになっている。東洋で最も古い天文台だと言う事だ。 そこから大陵苑の塀に沿って歩き、太宗路を横切って市街地に入った。縦横に商店が並んでいて活気がある。この商店街が将来シャッター通りにならないよう願いたいところだ。 しばらく歩くとマックがあったので、休憩がてら入ってみる事にした。よくファストフードは注文でぎくしゃくする。マニュアル通りの接客だから応用が全くきかない。街の食堂では考えられない事だ。 プルコギバーガーのセットを注文したつもりなのだが、言われた値段が違う。No.2のセットをハナ(1コ)のつもりだったのに、2セットと勘違いしたようだ。それを言っても通じない。 すぐ奥から店長らしき男性が現れて、韓国語、英語を駆使して説明が始まったのだ。何か、私が3時間もかけて山奥から出てきた男と思っているみたいだ。ハンバーガーには、こんな種類があって・・・とか教えてくれるのである。しばらく聞かせてもらった後で、何とかプルコギバーガーを手に入れた。そしてやっと落ち着いたのである。 しばらく休んだ。外に出ると薄暗くてかなり寒い。キリンモテル入口近くのGS25でキンパッとヨーグルトにコーン茶を買って宿の部屋に戻った。 4 両班(ヤンバン)の村良洞(ヤンドン)へ 8時過ぎに宿を出た。今日は市内バスに乗って良洞に行く日だ。とっても楽しみに思っていた。先ずは観光案内所へ行った。バス乗り場を確認するのと良洞について教えてもらいたかった。 バス停は大通りの方だと思っていたのに、市外ターミナルの向こうだと言う。尋ねて良かった。おまけに良洞の小冊子までいただいた。 教えられた所に着いたが、全く人っ気がない。バスは停まっているもののどのバスも運転手が乗っていない。おまけに全部番号が違う。202番に乗るつもりなのだが。 しばらく待っていたが何の変化もないので不安に思い、もう一度案内所へ戻って確認する事にした。先ほどの案内嬢がいた。バスが来そうもないと言うと、あの場所で間違いない、と言いながらカウンターから出てきた。 一緒に案内すると言ってる。でも場所が間違っていないなら待ちます、と言ってお断りした。かなり親切な方達だ。バス停の方へ向って歩いていると、すぐ目の前を202番が通り過ぎて行った。慌てて走った。良洞民俗村近くを通るかどうか確認して乗り込んだ。 ![]() これを運転手に見せておけば間違いなく降ろしてくれる筈だ。少し走って右折し慶州駅を通って、北へまっすぐ猛スピードで走って行った。 大きな橋の手前まで来るとボタンを押していないのに止まって、ここだから降りるようにと教えてくれた。 案内標識に従って、川とレールに挟まれた道を歩いて行った。鉄道と交差した辺りまで来ると、それらしき雰囲気がしてきた。 藁ぶき屋根が少し見えてきたのだ。あ、この景色。まさに頭に描いていた原風景だった。すごく感動する。左側には良洞小学校があった。道を辿って村に入る。 歴史背景は別にして、日本の原風景ともオーバーラップする韓国のこの景観を見たかった。数多くの藁ぶき屋根の家と、伝統家屋の瓦屋根の建物が点在している。 懐かしいような、タイムスリップしたような、不思議な空間にいる。もう旅の目的は殆ど終えたような気がしてきた。写真で見た風景は、山間の緑に囲まれた家屋であったが、今は冬枯れの景色である。このセピア色の風景が更に原風景を演出しているようだ。 ![]() 儒教文化を守ってきた風土には、村で商売をするのを嫌ってきたらしいが、今では食堂やら民泊をする家もあるみたいだ。 少し行くと、右側にシクタンの看板が出ている藁家があった。ちょっと訪ねてみた。庭には洗濯物が干してあったり野菜が置かれたりで雑然としている。隅の方には甕がたくさん置かれている。若い男性が話しかけてきた。 一時日本に住んでいたとかで日本語を話す。この家は食堂をやっていて土産物みたいなのも少し置いてある。しばらく話していたが、食事には少し早いので、後でもう一度来ようと再び村歩きに出る。 瓦屋根の古家屋の下に、かって召使いが住んでいた藁家が数軒づつある。居住空間にも身分階層の秩序があったらしい。 今度は北側の家屋に続く坂道を上って行った。賞春軒、沙湖堂、書百堂、楽善堂、と重要民俗資料指定の伝統家屋が建ち並んでいる。 ![]() アジュマが出てきた。日本語の通じる青年はいないようだ。それにこのアジュマ、ずっと携帯電話ばかりしていて商売には熱心でない。テンジャンチゲを注文すると、二人前からでないとダメだと言う。仕方なく、クッスと言うと何とかやってくれるみたいだ。 オンドル部屋に案内された。床はつるつる光っている、ほのかに暖かい。座布団を敷いて座った。メニュー表が壁にかけてある。10種類あるようだ。 不揃いの麺、少し味が薄く調味料を加えて調整すると、今度はピリ辛になってしまった。それでも、いっぱい歩いて空腹になっていたし、美味しく食べた。 今度はこの店の裏山へ、りっぱな屋敷の横を通って上って行く。村全体が広く見渡せる場所に出た。そこには我が心のオルガンで見たあの景色が広がっていたのだ。スハが下宿に案内され、部屋から窓を開けて見た景色と同じだった。両班村に広がる瓦屋根と藁ぶき屋根の家々景色そのものだった。 その後もしばらく歩き続けた。もう一つの北側の道も上ってみた。時々村人に会って挨拶もした。殆ど行き尽くして散策を終了した。 ![]() 橋まで戻りバスを待つ事にしようと線路脇の細い道を歩く。バス停の近くまで来た時、目の前を217番が通り過ぎて行ってしまった。次のはなかなか来ない。 1時間近く待ってやっとバスに乗る事ができた。 慶州駅前で降りて市場へ向かう。花郎路の北側が大きな城東市場になっている。道端にはぎっしりと野菜や果物を並べて、頬かぶりをしたおじさん・おばさんが静かに寒さに耐えながら座っている。韓国ではよく見かける光景だ。 ![]() 市場の中はと言えば、迷路のように商店が入り組んでいる。駅側が食料品で奥が衣料品とか日用品が多いみたいだ。 市場の中をくまなく歩き回った。そして餅屋の前で足が止まった。私は餅類はかなり好きなのである 豆類とか栗がいっぱい入っている美味しそうなのを見つけた。もうこれは買うしかないと思った。 ポン菓子を固めるような作業をしている店もかなり賑わっている。どこも活気があって楽しい。 この市場の奥を出て西に少し歩くと慶州・邑城跡に出た。高麗時代の城跡らしいが殆ど破壊されて、 ![]() 餅も買った事だし一旦宿に帰る事にした。宿に着きすぐこの餅を食べてみた。豆類は少し硬めに煮てある。餅はほんのり甘い位だ。レーズンとか栗もたくさん入っていて何とも美味しい。これから市場へ行ったら餅を買おうと決心する。 7時過ぎてから夕食に出かける事にした。大通りを歩いてもう一度駅近くのヘジャンクッ通りへ。歩いていると手招きされる。昨日の店より数軒駅寄りの店へ入った。椅子に座るとアジュマが何か言ってきた。 ごはんが炊けるのにちょっと時間がかかるそうだ。今日は盛況だったのかご飯が足りないらしいのだ。 奥のオンドル部屋では10人位が宴会をやっていた。実に賑やかだ。拍手や笑い声が聞こえてくる。アジュマは忙しそうに調理に取りかかった。間もなくヘジャンクッが運ばれてきた。昨日とはちょっと味が違っている。何も加えないのに初めから少しピリ辛だ。具材はほぼ同じ。でもホッとする美味しさだ。 ![]() 皇南パンが一番の老舗だと思っているのだが、店数では他のに負けているようだ。それにしても何故こんなにパンの店が多いのか不思議だ。パンと言っても饅頭のような物だから、普通にどんどん食べるような事はないだろうし。 観光客がいくら多いと言っても、ちょっと店が多過ぎるのでは、と余計な心配をしながら歩く。通りにはもう車は殆ど走っていない、薄暗い街灯だけの大通りだ。 右と左に古墳の大きな山が暗闇にうっすらと見えた。 |
![]() 慶州高速バスターミナル前の太宗路。道路案内板の下近くに観光案内所がある。 ![]() 慶州の町の中心部、大陵苑古墳公園にある。古墳群。 ![]() 皇南へジャンクッにはソンジは入っていないようだ。 ![]() 慶州は新羅(シルラ)の都として民俗固有の文化と仏教文化の他に朝鮮王朝時代の儒教文化が栄えた所。新羅時代に造成された離宮の庭園・雁鴨池に建つ臨海殿。 ![]() 新羅時代に建てられた東洋最古の天文台。瞻星台(チョムソンデ) 積み上げれれている石の数は旧暦の1年間と同じ361個と半分である。 ![]() 半月城祉の中にある石氷庫。朝鮮王朝時代のもの。 ![]() 良洞民俗村の景観。山の斜面に沿って並んでいる。 ![]() 良洞民俗村の景観。藁屋根のチョガジップの中に両班の瓦屋根が所々建っている。 ![]() 良洞村は月城孫氏と驪江李氏によって形成された両班(ヤンバン)のムラである。 美しい自然環境の中、伝統文化や韓国的な趣が最も完璧な形で残されている。 伝統文化の中で一番注目すべきなのは、学問と教育の伝統を残し、今日まで数多くの優れた人物を輩出したという点である。 ムラは内谷、勿峰谷、居林、下村の四つの谷と勿峰山や守拙堂の裏山の二つの尾根と、そして勿峰谷の裏側の渇求徳で構成されている。 このような谷や尾根に今は人が住んでいない家屋も含め500年の伝統を持つ160軒余りの家屋があり、これとチョガジップ(藁家)と欝蒼した森とがよい調和をなしている。 安楽川に沿ってムラの西側に広々とした広闊な安康平野がムラを支えてきた経済力の源であった。農地を耕作して経済力を維持する労働力には三つの種類がある。 まず一つ目は安康の野原に特別に形成されたドルマウル(野原の村)に住んでいた小作農である。 二つ目は農作業を担っていながら雑役に従事する下人たちである。彼等は屋敷の下にガリップジプという独立した居住空間をなす藁家に住んでおり、食事は主人の屋敷でとっていたという。 三つ目は屋敷の中に住みながら家の雑用と農作業を兼ねて従事する下人の部類である。彼等は独立した居住空間を持たなかった。 (慶州市観光振興課発行資料より) ![]() 城東市場横の花郎路。 この奥に慶州駅が見える。 ![]() 城東市場の惣菜の店。いろんなパンチャンが並んでいる。 |
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